落ちない汚れ14

香港で化粧品を仕入れ、個人輸入としてチラシを見て御注文頂いた

エンドユーザーへ商品を送る。これが、香港支社のおおまかな仕事

内容だった。

 

上司が平木に代わってすぐのことだった。ある日実家から連絡がき

た。

 

「あんた、香港で仕事辞めたんか?」

 

お袋が電話口で怒っている。

 

「いや、ちゃんと毎日仕事してるよ。訳わからん事言うなよ...」

 

いったいお袋は何を言ってるのだか、まったく心当たりもない。

 

「いや、だって国民保健や、年金から支払いがなくなったと連絡の

ハガキが届いたのよ」

 

「はぁ? いったいどういうことなんだ。わかったちょっと会社に

確認してみるわ」そういって電話をきった。

 

すぐさま日本の本社に電話をいれる。部長に問い合わせると、平木

に聞けという 何とも素っ気ない対応だった。

 

それで、ようやく出勤してきた平木に尋ねてみた。平木は、バレタ

かというなんとも嫌な顔をして言った。

 

「いや、会社の為なんだ。」

 

平木の言い訳は、私にはまったく理解できるものではなかった。分

かった事といえば、今後日本の本社から給料は支払われずに、国民

保健がなくなり、保険証はなくなり、すべて自己負担と年金も支払

われないという事だけだった。

 

それでいて、香港での給料がその分増えるということでもない。

 

平木が、日本本社と私との関係を突然にすべて断ち切ったのだった。

 

ばれてしまったとバツが悪いのを隠す為に顔を赤らめながら怒りな

がらの説明だった。

 

いったいどうして、そんな事をするのか意味がわからなかった。

それを行う前に私に一言も断りを入れる訳でもなく、勝手に本社か

らの給料をすべてカットとは。

 

もちろん、金に困っている会社ではなかった。平木が突然月給100万

で雇われたのも私は知っている。それなのに、私の日本からの給料、

保険、年金をきるなんて いくらブラックな企業とはいえ、する必

要もないことだった。この平木が香港に来てからの会社の対応がお

かしい。なぜ、こいつが100万ものサラリーで突然向かいいれられた

のか?

 

その時、私は無知だった。自分の給料を取り上げられた事で平木や

会社に対して腹ただしく、憤慨しているだけで、その理由に対して

もっと深く考えることができなかったのだ。

 

その時、会社の奴隷でしかなかった私は、何も失態を犯してもいな

いのに、理不尽に給料をカットされた事を受け入れるしかなかった。

 

このことによって、私は日本本社を辞めさせられ、何も関わりもな

い人材となった。平木の狙いはまさにここにあったのだ。

 

落ちない汚れ13

「あ、もしもし 良い話があるのですが。。。」
 
営業部隊が、住所録などのリストを見て電話をかけまくる。
 
もちろん、こういったリストはそういったリストを売る業者から高
い値段で購入したものだ。
 
電話営業で一度でも商品を購入すると、あなたの氏名 住所 電話
番号 ネットアドレス 家族構成などその時に答えた事はすべて業
者のリストに載ってしまう。だから、こういった営業で安くてお得
な物だとしても、購入しない方が良い。
 
そんな時に、ご近所の○○さんがいくら憎たらしいからと言って、
その家族の情報を教える恐ろしい奥様も世間にはいるかもしれない
が、やめた方が身の為だ。××さんの奥様から紹介されたとか、お
使いになられているなど、あなたの名前がご近所で使われる事にな
るかもしれないからだ。
 
そんな電話営業で会長が儲けた商品とは、チラシだ。
 
「代理店になりませんか?弊社のチラシをお配りになられましたら、
ご購入された代金の10%はあなたの物ですよ」なんて、甘くて、優
しい低い声で電話がかかってくる。
 
息子も小学生になって暇を持て余している専業主婦が、これでお金
儲けしようかしらと、甘い夢をみる。
 
もちろん、嘘なんかではない。エンドユーザーがチラシを見て購入
された商品代金の10%は、その人のお金になるのだが、労力に見合
わないほどのお金だ。新聞配達所の奥さんなんかは、新聞広告に織
り交ぜるなどすれば、確かに儲かるが、普通の主婦が、地道にマン
ションなどにビラをまきに行っても、たいしたお金にならない。
 
そして、「この代理店になる為に30万円必要です。、え、チラシも
うお配りになられたのですか?追加ですね では、チラシ代を頂戴
します。」
 
とやられる。
 
「チラシを配るぐらいなら、私でもできるわ。時間も関係ないしね。
これを配って誰かが何かを買う。その10%が私の物になるなんて良
い仕事ね。この権利に30万なら元は簡単に取れそうね」
 
主婦の欲をついた商法である。
 
こういった電話営業でお金を集めれるだけ集めた。営業の奴らも月
100万円の給料はざらにいた。ここでは、顔じゃない 声 低くて甘
い声を出せるかどうかが、給料に差がでるのだ。
 
電話ひとつで何百万も売り上げを上げる。そして、上司や役員達か
らも持ち上げられる。それも、20代前半の若いやつらが集まり、横
暴にふるまうブラック企業だった。
 
 
 

落ちない汚れ12

グァムのあるゴルフ場が閉鎖にみまわれたらしい。会長たちスタッ
フがよく行くゴルフ場なのだが、そこのスタッフを何人か会長は引
き抜いていた。
 
何故かそのスタッフ達はお互いが気に入っておらず陰口を言い合っ
ていたのだが、そんなスタッフ達が一番嫌がる人物を会長が引き抜
いたと噂がたった。
 
それが平木だった。
 
歳は59歳のロートルで、昔は商社の経理を勤めていたのだが、崩れ
てグアムのゴルフ場に勤務していた。
 
会長はそのゴルフ場から数人のスタッフを少しづつ雇い入れてグァ
ムで開いている洋服屋の店舗や事務所に置いていたのだが、平木が
会長に雇われやってきたのが、ここ香港だった。
 
後で聞いた話だが、給料も破格だった。日本円に換算すると100万
円との事だった。いったい、どう言いくるめてこの男は会長にすが
ったのだろう。そして彼らの古巣のゴルフ場は、後にすべからく倒
産した。まるで、未来を暗示しているかのように。
 
私の仕事は香港での化粧品の買い付けと発送業務だった。
 
C DIOR、LANCOME、CHANELなどの有名コスメブランド主に
取り扱う。
 
またコスメばかりでなくLVなどの有名ブランドのバッグからG-Shock
スポーツシューズ、ブラジャーなど、流行ものはどんどん取り入れて
チラシに掲載し取り扱っていた。一見華やかなように見えて実はそう
でない。
 
お客様から注文があれば、一軒一軒探しまわりそれは小売店が閉ま
る時間まで及んだ。なかなか見つからない商品を見つけ出した時は、
やはり喜び、苦楽を共にした上司もそれは認めてくれた。
 
今ではこの狭い香港で数百店舗もある化粧品のSASAも、以前はそこ
まで店舗数も多くなく、他の店も含めて 香港中の化粧品店やブラ
ンド店はどこにあるか網羅していた。
 
それは日本のデパートがたくさんあった時代だ。
 
銅鑼湾のジャンボSOGOをはじめ、三越、大丸、東急、松坂屋など、
たくさんの日本のデパートが香港で華やかに活気づいていた時代で
もあった。
 
小売店で商品がどうしても見つからない時はDFS、それでも見つから
ない時は、お客の信頼を勝ち取る為に赤字を覚悟でデパートの化粧
品店で購入した。
 
通常、商品を仕入れ赤字でその商品を売ってしまっては、商売がな
りたたない。しかし、会社は儲かり続けている。このカラクリはど
こにあるのだろうと思うが、
 
実は香港でのこの業務は会社の大きな利益を占めていない。この会
社、グァムやハワイに洋服や高級和食屋など店舗を持つが、実質的
に利益を上げているのは、日本の電話営業なのだ。全国に営業部隊
の事務所を立ち上げ、電話一本で旅行業務主任免許の学習書などの
売り込みだった。
 
そんな中で一番の販売戦力となるのが、「チラシを配り、その配ら
れたチラシで商品を購入したらその10%があなたの利益になりま
すので、代理店になりませんか?」という営業だった。

民主化デモ(3)

政府の建物がある金鐘(アドミナリティー)へ続く幹線道路。
 
いつもならひっきりなしで車が通っているので、危なくて入れない。
しかし、今はバリケードがあるので、車は入ってこれない。トラム
と呼ばれるチンチン電車も線路だけが残されている。
 
ポツ ポツ とまばらに人影が見える。夜になるとまたデモで人ご
みの渦ができる場所だ。いくつかのテントも見える。
 
道路のど真ん中で、仰向けに寝転んでいる人。何を思っているのだ
ろう。
 

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大きな荷物を台車でひいて幹線道路を横切ろうとしている老人。道
路の柵のところで台車が持ちあがらないので、助けてあげた。にっ
こりと礼を言い去っていく。
 
バリケードを動かして、消防署に消防車が入っていく。

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中年夫婦の西洋人も歩いている。どうやら今の香港を覗こうと観光
しにきたようだ。
 
デモを起こしている若者であろう。柵の向こう側の中年男性と小競
り合いとなり始めた。中年男性が罵倒する。そして、何度もこちら
側につばを吐きかける。
 

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若者は柵を乗り越え 中年男性を追う。
 
取っ組み合いになる間際、仲裁に入る人。
 

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別の若者が加勢に入ろうと凄い剣幕でこちらに走りこんで来る。そ
して俺に今にも掴みかかりそうになった。
 
俺が、柵の向こう側で喧嘩する若者と中年男性を指さすと思いっき
り人違いだと分かったらしく、柵の向こうへ駆けて行った。
 
デモと警官の対立がクローズアップされるが、デモ側と反デモ側の
市民の対立も相当激化している。デモのせいで迷惑をこうむってい
る人たちもかなりいるのだ。だからといって、香港人として、この
ままどちらも共産党に支配されたい訳ではない。
 
香港がイギリスからこのまま50年は現状の制度のままという約束
で返還されて17年。丁度俺が香港に渡った歳だ。あと、33年。しか
共産党は我慢できずに香港の政府を操ろうとしている。
 
17年前 返還の時 今の大学生は3、4歳の幼児だったが、その時
の若者たちは、香港が本土に返還されると香港は変わると言って、
カナダ、アメリカ、オーストラリアの大学へ留学と称して逃げ出し
た。そして、永久ビザ取得しようとした。
 
返還後、香港が何も変わらないとわかると、英語が堪能なって若者
がどんどんと香港に戻ってきた。このまま若者や市民たちのデモが
潰されてしまうなら、またたくさんの香港市民は海外に逃げ出す事
になるのだろう。ただ、17年前に比べて今は外国でのビザを取るの
が困難になっている。
 
金融都市である香港の立場や値上がり続けた不動産は、今後どうなっ
ていくのであろうか。

 

民主化デモ(2)

その後従兄弟たちとスターフェリーで九龍に渡り、尖沙咀にあるヘ
リテージ1881(水上警察跡地)でアフタヌーンティを注文し優
雅に過ごした。
 
そこから深圳に住むもうひとりの従兄弟と合流し、夕食は地元で人
気の金山という店に行き、ビールと共に大きな蝦蛄やホタテ、牡蠣、
などの海鮮をたらふく食べて盛り上がった。
 
次の日は、香港の昔ながらの飲茶を頂こうという事で陸羽茶室で飲
茶をして過ごした。
 
そして、従兄弟達が香港からそれぞれ帰っていったすぐ後に始まっ
たのである。香港の民主化デモが。
 
26日夜に香港政府のビル広場に突入した学生達の呼びかけから2日後
の9月28日、オキュパイ セントラルとして宣言された。
 
最初は学生の集まりだったのだが、5万人が集まり、10万人を超え次
々と大きな波となっていった。
 
その日は銅鑼湾のSOGO前の幹線道路は、団体の座り込みで占拠され
ていた。警察も数人いるだけである。
 
何人かが演説していたり、バンドがイマジンを演奏していたり
なにやらまるでお祭り騒ぎのようである。
 
占拠された道路には物資と書かれた札が立てられていたり、テント
や傘があちこちに置かれている。
 
気安く警察官の肩を叩いて「大変だな」と笑いかける男もいた。
 
警察官も苦虫を噛んだような顔をしながら、うなだれていた。疲労
がかなり溜まっている様子だった。

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中環(セントラル)から始まったデモも、銅鑼湾、旺角など商業施
設が集中する繁華街の主要道路で座り込みがはじまった。
 
警官たちは、催涙スプレーを使い、その催涙スプレーを顔面に受け
て、涙をながしながら路上でのた打ち回る学生もいた事は、報道で
知った。
 
いくつかの小中学校が危険を理由に休校になった。
 
また幹線道路では路線バスが運休した為か、中環(セントラル)地
区では空気の汚染指数が下がったという、なんとも皮肉な話も聞い
た。そして、10月に入ったある日 デモが行われていない昼間に中
環から金鐘へ続く幹線道路を歩いてみた。
 
車が入れないように閉鎖されており、人がまばらに歩いている。
 

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民主化デモ(1)

突然のデモに世界中が注目を浴びた金融都市香港。
 
香港の金融街 中環(セントラル)が学生たち若者と市民に突如占
拠されてしまった。
 
2014年9月26日夜 オキュパイ セントラルである。
 
既にたくさんの報道が世界中に流されたので、もう皆さんは御存じ
であろう。
 
デモが始まる2日前のことである。
 
シンガポールから従兄弟が香港に出張にきていた。セントラルにあ
フォーシーズンズホテル株主総会がそこで開かれるというので、
ビシッとしたスーツで参加しにきていた。会社を代表してだが、株
主側である。すごい貫禄だ。
 
宿泊先はワンチャイにあるグランドハイアット、そこへ従兄弟を迎
えに行くと綺麗な奥さん同伴だった。
 
「ひさしぶり」
 
「今回は嫁を連れてきたよ」
 
「どうも、はじめまして」
 
平和な空気が流れる。数日後にまさかここ香港で大きなデモが起こ
るとは思えない。
 
「あっちゃんは、仕事を早く片付けて泊まりで香港に乗り込むってさ」
 
「さては、たらふく呑む気でいるな」
 
笑いながら会話が弾む。
 
もうひとり従兄弟が香港の隣、深圳市内にいる。今日は4人で香港
に集まって従兄弟会を開こうとなっていた。
 
「あっちゃんが香港に到着する間、いろいろと案内するよ」
 
そういって、我々はとりあえずタクシーに乗り込んだ。
 
中環のフェリーピアに到着した俺たちは、2階建ての屋根がないバス、
オープントップバスに乗車した。
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中環(セントラル)から古い街並みが残る上環、そしてギャラリー
がたくさんあるSOHO地区へと走る。この時期少し暑さが和らいだ香
港、風が心地良い。
 
中環(セントラル)でオープントップバスに乗車して少し動いた時
にバスの2階から学生達の集団がみえた。
 
「あの集まりはなんですか」
 
従兄弟の奥さんが尋ねる。
 
「さあ、なんか集まってるね」
 
と、その質問に対しその時は曖昧な返事しかできなかった。 
 
この数日後に97年返還以来、ここ香港で歴史的な民主化デモ「雨
傘革命」が起こるとは思いもよらなかった。
 

 

 

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落ちない汚れ11

突然会長から来いと呼ばれた。場所は会長が住むLAにだ。
 
会社は名古屋本社の他に営業所が全国にあり、海外支社は香港の他
にグアム、ハワイにあった。
 
新しくLAの支店ができたので従業員に仕事を教えに行ったのだが、
その時に会長の自宅はハワイからLAに場所を移られており、そこに
訪問させて頂いた。
 
会長の自宅はLAの高台にあり、プール付きの豪華な一戸建てであっ
た。この高台からは、LAの夜景が見下ろす事ができ素晴らしい立地
である。
 
奥様や子供さんたちに囲まれて、幸せそうな暮らしが垣間見える。
 
これが、お金持ちと呼ばれる人の暮らしかと、ただただ驚かされた。
 
「夕食はステーキ食いに行こう」
 
と、高級ステーキ屋に御家族を含めて食べに連れていってもらった。
そこでは、子供たちが明るく笑っており、奥様も微笑んでおられた。
 
「こちらは会長の奥さんの弟さんで、板野充徳さんだ。」
 
以前日本で会長の奥さんの弟で、名古屋でクラブの経営をされてい
た人で紹介された事があったが、奥様ご本人や子供さん達と会うの
はこれが初めてだった。
 
会長の御家族を紹介して頂き、皆で和んでいると、会長が笑いなが
ら誘ってきた。「なぁ、イタリアは諦めてLAに引っ越してこないか?」
 
この頃は、度々会長からのアピールがあった。
 
最初にお断りした時は、仲の良い上司からこっ酷く叱られた。
 
「会社員が会長の命令を聞かず、ロスに行かないとはありえんぞ」
 
その頃、香港人の彼女が居たのと、イタリアに事務所ができるから
という訳でこの会社に入社したのに という理由で会長自らの人事
を蹴った。
 
一度、ロスを見学させて こちらに来させようという魂胆もあって
会長は俺を呼んだのだろう。既にこちらで働いているハワイから連
れてきた若者は、プール付のコテージ風の家に住み、会社で与えら
れている車も運転していた。住宅事情が違う香港にはない贅沢な暮
らしがそこにあった。
 
会長のそばで働くとなれば、栄転でもあり 贅沢な暮らしも そこ
は約束されたも同然だった。
 
若くて気さくな同僚に車でハリウッドに連れて行ってもらい楽しん
だ。また、ラスベガスも車で時々行っている暮らしぶり。空が広く、
気候も良い
 
香港の暮らしとは全く違ったものになるに違いなかった。
 
しかし、もし、ここでLAに行ってしまうと、彼女との別れや二度と
イタリアで事務所ができてそこへ転勤といった話はなくなるだろう
と察しはついていた。
 
だから、会長命令を聞かず俺はLAにはいかなかった。
 
会長のお気に入りだったからなのか、仕事を頑張っていたからなの
か、俺はなんとか許されて香港に留ることができたのだった。